essay          
第4回 

     
「らぶいずぷあ」
   詩と音楽と恋 
vol-4
玲 はる名

朱色のいろえんぴつ

  
わたしは本棚の整理がたのしくてならない性質で、
土日になるとたいがい本棚に向かって本の並べ替えをします。
 自分がどのような本をもっていて
 その本が現在必要なのか。
 すぐ使うのか
 保存するだけに買ったものか。
頭のなかの整理をするのもその目的のひとつです。
わたしは蔵書家ではないので、
さほどの冊数を所持しているわけではありませんが、
本棚と頭の整理は常にしておかないと、
ものを書けなくなります。
例えば引越などで本が未整理になる場合、
それが半年ならば半年は思考停止になるのです。
先日、本の整理中に
みどり色の表紙の
クリスチャン・ギリシャ語聖書(新世界訳)が出てきました。
ギリシャ語聖書といっても
日本語訳なのでわたしにも読めます。
実際、小学生のときに教会で使っていました。
懐かしいなと思い、
パラパラめくっていくと、
裏表紙の一枚前の白紙のページに、
朱色のいろえんぴつで、
これでもかというほどの線が
殴り書きされているのをみつけました。
わたしが数年まえにこの落書きをみたときは、
赤ちゃんのいたずら書き程度にしか思わなかったのですが、
よくよく考えてみると、
当時赤ちゃんだった弟が聖書に触れた記憶はないのです。
それに、朱色のいろえんぴつは
本文が書いてあるページの
重要な部分に引いてある線と種類が同じものなのです。
とすると、
この落書きは自分で書いた可能性が高いわけです。
 聖書に落書き。
 聖書に殴り書き。
まさか、わたしがそんなことをするはずがない。
小学生のうちに
バプテスマを授けることを目標としていた
宗教家のたまごがなぜそんなことを?!
……目を瞑って、遠い過去を回想してゆくと、
二十年以上も前の記憶が微かにうかんできます。
 かなしい記憶、
 さみしい記憶、
 おそろしい記憶。
 やさしい人。父、母、父、母、父、母、母……。
切なすぎて開封禁止となった記憶たちが、
今のわたしを拒絶しながら、
断片的に空や街並みをみせてくれます。
そのとき
 だれもわかってくれない。
 だれもわかってくれない。
 だれも……
ふと、そのような言葉が頭に浮かんできました。
小学生の頃の自分の感情の破片です。
なぜ、そのように怒りに満ちていたのかは思い出せませんが、
つよい念だけが思い出されました。
そして、この落書きの線は、諦めの末に
神に離別を告げた証であると理解したのです。
そうか、これは踏絵だ!
世界に対する踏絵をした記憶がどっと押し寄せてきました。
自分をしあわせにするには、
わたしがわたしの神であることが必要だと、
そう決意した日のこと。
はじめて詩を意識した日のこと。
旧約聖書を処分した日のこと。
それでも捨てることのできなかった、
このみどり色の聖書のこと。
儀式の日……
明るく薄い雲を漂わせた青空が、
血を滲ませるように紅く
そしていずれ青紫がかってゆくまでを
ただひたすらに待ちました。
誕生と死。
そして、孤独とはこの空と直接手を繋ぐことだと、
わたしは祈りながら空に手を伸ばしたのです。
それから、二十数年。
わたしはふたたび彼女に会えるでしょうか。
例えば詩のなかで。
そう思いながら瞼をひらき、
みどり色の聖書を閉じました。

麦の穂の熟れしにほひにかなしみの空虚となりぬひとときのあいだ


吉田正俊(歌集「天沼」より)


レイ☆

 

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